【つれづれ】花火大会に見る日本人の心

Category : 街角つれづれ日記

8月のお盆シーズン、都内へ向かう通勤時間の電車も余裕があります。今週の初めあたりからお盆休みの始まる会社が増えているようで、それに反比例するように渋谷は夏休みの若い人たちでごった返しています。夏、ですね。

そんな8月7日の土曜日、埼玉は荒川の河川敷で毎年行われる恒例イベント「戸田橋花火大会2010」に行ってみました。もともと出不精の性格もあって大きなイベントにはなかなか参加しなかったのですが、実家の埼玉に戻り生活が一新して初のイベントに、静かにテンションは上がります。

日時:2010年8月7日 19時~20時45分

場所:荒川戸田橋上流 戸田市側河川敷

「第58回 戸田橋花火大会2010」

見上げる空には、青、朱、黄と電飾と見まごうばかりのひかりの粒たち。幾何学模様に見えるそのひかりは、風と空の闇とに押されて形を変え、白い煙に侵食されて消えていきます。

身体中の産毛に感じる空気の振動は、同時に鼓膜をも刺激し、それは鼻をつく火薬の香りとともに爆心地がまさに目の前であることを実感させ、咲いては散る色とりどりの華は圧迫するほどの夏の暑さのなかで、何度も何度もその人生の栄枯盛衰を私に見せ付けていきます。

煙と消えていく花火をみながら、私は一人考えていました。

「花火の本質は花火になくて、やっぱりその煙にあるんじゃないかな。」

人々を魅了し、子供たちをはしゃがせ、酒の肴になる花火がその姿を表にしているのはほんの一瞬で、残される煙と感じる永遠の耳鳴りは、夢から醒めた時に感じるせつなさと同じであるような気がします。

江戸の花火職人たちは、夜空に華を咲かせながら、今に生きる私たちに何を見せようとしたのでしょうか。

花火大会が幕を閉じ河川敷からたくさんの人たちがおのおのの住処へ帰っていく中で私は、終わっていく美学、散っていく哲学というものが花火にはあるのではないかと思いました。むしろそこに、日本人の心があるのではないかと思いました。

煙とともに消え去るからこそ、華は鮮やかに咲き乱れる。鮮やかに咲き乱れるからこそ、静かに消え去ることが出来る。それは表裏一体で、生きるというのは、そういうことなのではないでしょうか。

私は、静かに消えていきたい。消えていくために、まだまだ咲かなくてはいけない。日本人として、心に常に覚悟を置き、華として咲かなくてはいけない。

そんな耳鳴りを残して、今年の夏は、私のもとから去っていきました。